2012/01/07

美徳



例えば散らかっている部屋を見て、「最近散らかしすぎているから、片付けよう」と、こう思わせているのが美徳だと思う。何かに強制させられる訳でもなく、いわいるそうあるのが正しい事だと思わせるもの。ある種の強制力を持っているもの。

車の中で母親と話をしていながら考えていた。夜11時をまわって、兄を迎えに行く母親のボディーガードをしていた。

「日本人の主婦は毎日洗濯をすることが美徳だと思っている。」
母親はそう言っていた。


イマヌエル=カントの話が思い出させる。「これからの正義の話をしよう」(マイケル・サンデル著)で出てきた話だ。

簡単に言うとこういう話。
例えば、ある時テストの解答用紙が返却されたとする。その時、採点ミスで本来の点数よりも高く点がついていたとする。このとき、彼は「採点間違っていますよ」と言って点数を下げてもらうのだ。

その理由が
1. 卑怯者と思われたくないから
2. 本来そうあるべきだから
のどちらかだとしよう。

カントによれば、2の理由だった場合のみ彼の行動に道徳的価値があると言う事になるらしい。立派な行動かどうかは置いておき、1の理由だった場合は彼の行動に道徳的価値はないらしい。


何が良いたいかと言えば、道徳的行動を誘発する存在が美徳だと思う。
しかしこれは単に思い出されただけで、今回の話に関わりはあまりない。


美徳の話だが、美徳は意識下で存在するものではないと思う。
無意識的な強制力のようなもので、そうなることを心地よく感じるというか、うまく言葉には出来ないが、そのようなものとおもう。

アインシュタインのある言葉は、教育とは崇高な美徳を伝える事、と解釈する事ができた。これも単に思い出されただけだが。


ただ何を美徳とするかは、その個人の評価においてかなり重要な役割を担っていると思う。お金を正しく使う事、部屋をきれいにする事、時間に正確に過ごすこと。大切な美徳はたくさんある。そのどれを美徳とするか、どれを美徳としないかは個人の自由である。

礼儀や限度はあるが個人の自由だ。

ここで母親の言葉が出てきた。
「日本人の主婦は毎日洗濯をすることが美徳だと思っている。」

おそらく毎日洗濯をする事は偉いことだとは思う。
しかし母親が言いたいのは、環境問題を見れば、洗濯物はたまるが洗濯の回数を減らす事こそが正しいのではないか、と言うことだと思う。
各家庭の事情は知らないが、環境問題をないがしろにすることはおそらく正しいことではない。それを美徳とするのは間違っているのではないか。

自分の美徳を信じきって過ごすのではなく、情報を入手して適切な美徳を追求していくことが必要な事だと思う。そしてそれを早く行うこと。


とりあえず今年は遅刻癖を直して、時間に正確であることを美徳とするのが、まず僕の取るべき道だと思った。

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